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昭和54年 3月25日 朝の御理解
御神訓 1・神は声もなし形も見えず疑ば限りなし恐るべし疑をされよ
信ぜよ、と言うても何を信ずるのか、教えを信ずる。それを信じて行ずる。そこに、まちがいのない神様の働きを見せてもらう。また感じさせてもらう。そこから限りなく信ずる心が、うまれたくる、と思うのです。
結局、信ずる。いわゆる確信に満ちた生活が出来ることのためにも。
だから本気で教えを行じ、そして信ぜれる、ね。まあ、ここで言うならば、なら親先生の言葉を信ずる。
だから親先生の言葉を行ずる、という以外には、なさそうです。そこから限りなく神様を信ぜれれる心の状態が、いよいよ“神様は信ずる者を信ずる”と仰せられますように神様から御信用の受けられる。言うなら御神徳の受けられる世界が開けてくるんです。
昨日、高鍋の古屋先生から電話がかかってきた。この頃、総会の時に一番始めに発表されたあの先生です。もう前からお願いがしてありましたし、その16日の日も、もう、いよいよギリギリの事のお願いでしたが学校に奉職しておられます。大変な重要な書類を、もう関係書類も全部紛失した。それで自分の家に持って帰っておるのか、学校においておるのか、わかりませんので、ずいぶんお願いもなさるしまた探しもされたけれども、どうしても16日までには、それがわからなかった、出てこなかった。
それで、もう校長先生とも、ちゃんと相談して、もう大変な事なんだけれども、これは、あらたに作るより他はない、と思いますから、というお届けがあった。けども、まあ、作らずにおかげ頂きなさい、という事であった。
昨日、電話がかかって来てから一番に親先生、もう信ずる事の尊さ、もう、おかげ頂きました、というのが一番口でした。それがね、もう出て来てはならない所から出て来たんだそうです。
ですから、それで大変コリを積んだり、また、いろいろな問題が、おこりそうですから、その事を、どうぞ今後おくり合わせを頂きますように、と言うてもうギリギリのところで出て来たんです。
だから親先生は、あゝ言いなさるばってん、お伺いする。これは、も、やはり、それをもう一偏作成する他はない、と言うておられたら、その信ずる力はうまれなかったでしょうね。けども親先生が、も作らずに、おかげ頂け、と言われたから、只その一言を信じて。もうそれこそ家の中も、学校も隈なく探した。ところがね、もう、いよいよない、と先生方も総動員で、ま、探して下さったんだそうです。
ところがそこから出て来てはならない所から出て来たんです。あゝ神様の働きもさる事ながら、ま、古屋先生が感じられたのは、今日の御理解でいくとです、ね。神様は形も姿もないんだけれども、教えを信ずる。親先生の一言を信ずる。その信ずる事の尊さ、ね。
だからどうでも私は、いよいよ神様から信じられるおかげを頂くためにはです。まず、信ずるけいこをしなければならない。それにはね、本気で教えに取り組む以外はないです、ね。
合楽理念、合楽理念と例えば口を開けばそう申します、ね。いよいよ、こういう時に合楽理念はどう教え、どう説かれあるか、まず、わからせてもろうて、ね。それを信ずることの上に、行の上に表していく、という以外にはないです。そこから、いわばもう疑う余地がない事になってくる。
そのためには、どういうような心がけにならせて頂いたらよいか、という事になります。
昨日は中村喜久代さん所の恒例の謝恩祭でございました。もう本当に思い、いっぱいで奉仕をさせて頂きましたが、例えて申しますと、お知らせに『スパナ』を頂いたんです。ネジをしめるやつね。こうやって大きなネジでも小さなネジでも出来るように、自由に出来ますよ、ね。
しめなければならない。ゆるめなければならない、ね。
ですから私共が日々の上に様々な問題がおこってまいりますけれども、その問題の一つの処理法、と言うのは合楽理念をもってする外はないのですから、ここは合楽理念をもって、どう頂くか、という事なんです、ね。そすと、すぐ心の中によみがえってくる、ね。言うならば、このネジをほどかなんならん、しめなければならない、という時に、そこに一寸、ここはどう頂くべきか、というとネジを上げたり下げたりする事によって、しまりもすりゃ、ゆるみも出来る。もう中村さんなんかは何十年間の、ま、いうなら合楽で一番古い御信者さんですから、もう親先生が、こげん時には、どう言うてある。どう教えられる、ということなんか充分知っておる、ね。不平どんが出ろごたる時には、不足どんが出ろごとある時には、はぁ親先生が言うておられる、ね。喜久代という名前は片仮名と漢字で頂いた時に喜久代、喜び久しい代と、これからはそういう漢字で使うように。
そして上の喜び、という字を取ってしもたら後はくよくよになってしまう。
だから喜は取らんように、ところが心の中に不平やら不足がおこった時には、はぁ、今こそ喜びを切らしておる時だ、と思うて一寸ネジをまいたり上に上げたり下げたりして、きしっとして、しめ上げていくような行き方をね。そういう信心には心がけがいるんだ。
昨日、玉串を上げます時に、教師代表の玉串を上げますのが、古川と上野先生とが玉串を上げまし他。その時に頂きました事が御本部に神露、というお酒がございましょう。神の露と書いてある。その『神露の一升の菰樽』なんです、ね。それを頂いて、ははあ、有難いなあ、今日は中村さんところのお宅祭りには教祖金光大神様と天地の親神様が玉串を上げよんなさるな、と思ったんです、ね。いうならば古川、教祖様と、しかも奥様の血統に当たるひと。上野先生は、上野愛子という。お知らせを頂く時には最高の愛を、と言う意味ですから、ね。上野先生を頂くんです。
だから天地の親神様と教祖様が玉串を上げよんなさる、と思うておりましたら『その一升樽に呑み口をつけてね、そしてこうやって、お酒を中から引いておる所を』頂いたんです。それで私が、ま、思いあたる事があったんですけども、昨日、私があちらへ参りましたら、あちらの主人であります、清さんが一番口に出て来てから、あ、迎えてくれました。ところが、もう、お酒の香いがプンプンするんです、ね。ま、不謹慎と言えば、こんな、
それこそ天地の親神様やら教祖様やら日頃神様の様に思うたり、言うたりしておる親先生をき今日、年に一度、お迎えをする。しかも、そのお祭を、という、そのお祭以前にです。お酒を飲むなんて本当に不謹慎な事だ、ね。
だから、そういう心がけではいけないよ、ということ。私はそのお知らせを頂いて一番最後に申しました事でした、ね。信心は心がけでするものだ。その心がけがです、不平がおこる、不足がおこる、痛い、痒いを感ずる時にです。ここはどう頂いたならよいか、という事を思うてみたら日頃教えられる教え、というものを、私は信じておるならばです。本当に、ね。守らない人は、私は教えを信じてない、それでは、いつまでたっても神様を信ずるという事の出来るような働きはうまれてこない、ね。神様を信ずる、という事はまず、おしえを信ずる。合楽での信心はまず親先生の一言一言を信じて聞く、信じて行ずる。そこに信ずる事の尊さ、という事になる。
昨日、丁度、北野に研修の一寸先でしたでしょうか久富先生ところの奥様が先日の霊祭にお参りが出来なかったから、と言うて昨日参ってきた。娘と二人で、娘がもう来月でしょうか、福岡に嫁行っとるとが出産のおかげ頂くから、と言うて一緒にお参りしてまいりました。
そして言われる事は「親先生、この頃、家のパパはもう、とにかく気が短こうなって、当たり散らかして、よっぽど合楽で何か辛抱しぬいとるから、家であんなに、もう誰にでも当たり散らかすのではないでしょうか。もう家々話しよります。今この頃、足もヨタヨタして、あれは怒りの中傷というとじゃなかろうか、と言いよります」ち、言うんですよ。私はそれを聞いてね、確かに中傷には怒りの中傷とかね。笑い中傷とか泣き中傷というのが、あるそうですよ。「なら、あんたげんお父さんな、ちがわんごつ怒りの中傷ばい、それは家に帰っただけではない、ここでも若い修行生の方達はいつも怒られちゃる」
したら、西岡先生がですもん、「いや、そげん言いなさりゃ、あの、この頃、も、私は腹が立って、こたえん」ち、腹を立てると体が言うこと聞かんようになるそうです「だから腹かいちゃ、いかんと、思うばってんから」と言うて、その西岡先生に話された、ということ。なら、これは、いよいよもって、怒りの中傷じゃろう、と言うてね、ま、話した事でした。
先日もあなた、この頃、朝晩送り迎えしてるんです、うちから。ところが共励会の何かの時で車が出払ってる時には、帰る時に車がないわけです。待っとかれんわけです。それでその此頃タクシーを雇って帰られたそうです、ね。
そしたらあなたあの大城橋から歩いて帰って来とる、もう大変きつかった、ち、言うちから。
今日は、もう俺があんまり運転手を怒ったけん運転手がもうここで降りてください、ち、言うたんでしょうね、きっと。それけん私が昨日、その話をしたやん、そしたら私がお話し中に「いいえ、そりゃー」ち、言うちから、お話し、久富先生が言いなさるとじゃん。ちょっと待たんの、せっかく話しよるとじゃけんでえ、済んでから話さんの、ち、言うてから話しが済んでから「何じゃったの、あなたが言わなんことは」ち、言うたら、いや、そりゃあ、あなた私がね、こっち、こちらの合楽の村中をこうやって通ってもらうとね。百円安かげなたい。それは善導寺さん、こう廻りどんするけん、ずうっと、やかまし怒って行っちゃるわけたい、大城橋の上まで、ここさんくると百円高か、ち。私が言うたけんでだった、という事を言うわけ、言いわけをされるわけ。それでも百円高かぐらいで、そげん腹をかかんでんよかやんの、ち。私は、ま、言うた事でしたけどもね、も、それがモヤモヤして腹がたってこたえん。
そして帰ってから今度は嫁ごに当たる。私に当たる。も私に当たるるぶんなら、えゝばってん。子供達がめいわくしとる、とこう言うのですよ。やっぱ怒りの中傷(笑い)。それで私は行きがけ車の中ででした。その話しを、いやこの頃そげん言いなさると親先生。二人でいつも御用しなさるですもんね。それに、ここは私がもむところ、ち、決まっとるわけです。それを繁雄さんがもみよんなさると、こうやって、ヒジで突きなさるそうですたい。それけん、この頃はもう本当、二人で御用さしてもらう時にはね、も、心を使わにゃ出けません、という話を車の中でされるんです。そしたらその時頂きます事がね。『ネギ坊主』を頂くんですよ。ネギの坊主の出た奴、それにね、私はあげな花は見た事ないですけども金泉花が根〆め、と言うか根元にあしらってあって、それはもうこげな見事に活けられるじゃろか、と言うごと、その『ネギ坊主と金泉花の盛花』を頂いたんです。ね、ネギ坊主という事は、ネギと言うことは、神主さんの事をネギと言います。神様に奉仕する。
だからここではお道の教師の事をネギというお知らせ頂きます。しかも坊主が出とるとじゃけんでん、もう役に立たんち言うと何ばってんからま、年取ったネギという意味でしょうねえ。それが久富先生のこと。金泉花のお知らせは久富繁雄さんの事ですから、ははあ、二人がとにかく日に何時間か一緒に御用しなさらにゃならんからね。
ですから、繁雄さんが、いつもそれこそ物やわらかにネギの根元であしらわれております、という事が何とも言えん一つの盛花のような形になっておるから、家の中の和というものは、こういう行き方でなければいけないよ、という御理解を、昨日中村さんところで頂いたんです、ね。もう、とにかくこの頃好きなお神酒が飲まれませんもんですから、やっぱりイライラ、モヤモヤも、ありますでしょうね。私がもうそれに言いますから。あゝもう、何杯も、あゝあんた、もう三杯目じゃないかのと、それで家では、もう一生懸命辛抱しちゃるから帰ってから爆発するわけ、ね。結局、欲求不満なんです。それがその、やはり言うなら怒りの中傷になって現れてくるわけ、ですね。ですけども、心がけておれば、例えばそれが病的であっても、それを辛抱が出きんことはないのですけれども、やはり辛抱出けんところがある、ね。時々、やっぱプンプンしよる時があるわけです、ね。これはまあもう本当に悲しいように、そのことを思いますね。
昨日は午後の奉仕の時間に、鞍手の柴田さんから電話がかかってきた。もう先日の霊祭におかげ頂きました。それこそ熱烈な人ですから、もうあちらの周辺に沢山の人が助かるようになり、しかも今度は改式が4名か5名かありました。あの鞍手の地区からもう、仏壇なんかも全部こわしてしもうて、そして、ここへお遺骨も全部持って見えられました。も、そういう霊祭を初めて昨日頂いたもんですから、その感動が、もうどうにもこうにも仕様がない程に感動がわいて仕様がありませんでした。そしたら神様からね。こういうお知らせを頂いた、と言うんです。“八百八金神のよろこび”と頂いたげな、とても人間の知恵やら頭やら出て来ない言葉ですよね、八百八金神のよろこび。教祖様が言うならば一生懸命の実意丁寧な信心をなさるのにもかかわらず、次々と難儀な事がおこってくる。当時の今でもそうですけども金神様と言えば、もうそれこそ特に豹尾金神なんか、と言うのは知って向えば命を取り、知らずに向うても目を取る、という程しの、ま、悪邪神のように言われた、その金神様へむかってです。
人間氏子の事でございますから、どこにお粗末御無礼があるやらわかりません。普通一般では金神封しとか金神よけをして行きますけれども、ね。そういう目を取ったり命を取られる程しの力のある神様ならば、目を下さることも、また命を下さる事も出来る神様にちがいはない。どうぞ氏子の私共の、お粗末御無礼は、平に平にお許しを頂きまして、どうぞお向きを変えて下され、向きを変えて下され、と
言うて、その金神様に向かわれたんです、ね。
だから金神宗教と金光教の中で言われるのそういう事からなんです、ね。それでもやはり次々と、言うならば難儀な事が続くわけです。それでもやはり、実意丁寧を貫かれて金神様へ向うていかれる。
そしてもう、ね。お前にはもうそのまいった、と神様が言われるような表現をなさっておられます。
この方は行き届いておる、ね。これからは、言うならば有難い事だけしかやらんぞ教えんぞ、と言うようにです。神様との間にお約束が出来れる程しの事になって、そして、その金神様が向きを変えられたら、どういう事になったか、と言うと、それこそ慈愛あふれるような、天地金乃神様、と言う事になったんです。初めて天地金乃神様が表面に出てみえた。
最近、右か左とか、陰とか陽とか言われるが、言うならば、昨日柴田さんが頂いとられるのは、ね。
八百八金神というのは八百万の神と言うでしょう。あの字が書いてあるのです。八百八金神の喜びと。それこそ、ま、わかりやすく言うならば罰を当てよう、ね。あれの、いっちょ眼を取ってやろう、命を取ってやろう、という程しの事柄でもです。実意丁寧、しかも言うならば合楽に導く人間だけではなくて魂までも霊の世界のものまでも、導いてくれた事が、ね。
そこには罰を当てようのないような、おかげだけしかやりようのないような働きになって来た事は柴田英美子、お前の信心だぞ、と言われる子とではないでしょうか。八百八金神の喜び。天地の親神様の裏側の神様です。言うならば、右に対する左、左に対する右なんです。私共が信じなければならないことは、今は合楽の信心が完璧だ、と言われるのは、その八百万の神という事は天地金乃神ということでしょうけども、その天地金乃神様の 言うなら裏面、表面、ね。八百八金神のところまでも神愛満つる神様として昨日、でしたかね。あの大蒜の、ね。お話しを昨日しましたでしょう。あれと同じように、も、金神と一体となってござる、ということです。合楽の場合は、だから私が言うておる事が確かに先生が言われるように前代未聞、とか宗教以前の宗教とか、もう、それこそ過去の宗教のすべてが、もう価値をなくしてしまう程しの事を、合楽では言われておるんだ、という事を聞くだけではなくて、それを信ずるところからです。この信心を、いよいよ持って言うなら、示現活動に参画さして、しなければおられない。こういう素晴らしい事なのだから、と信ずる事なのです、ね。そこから私は成程成程ということになってくるんです。
昨日は久し振りに、吉井の波多野さんがお参りをして見えて、もうそれこそボロボロになったのを、こう何でか継ぎはぎしたような、こんなものをもって来て下さった。ついじゃる、です。
で、これにはそのう、山頭火の句がのっておったから親先生は山頭火の句が大変お好きだから、と言うので、これをもって来て下さったんです、ね。まあ、本当に山頭火、という方の私の性分に合う、と言うでしょうかね、。もう仕事をするとが嫌い、酒がもうどんこんされんごと好き、とですから放浪の旅に出られて、そして出来るのは、この人は大変、早稲田を中途退学された方ですから、頭はずい分よいお方でしょ。もうこういう、それこそ真に迫る、と言うか涙がこぼれて、御信心を頂いて、いく人達は段々この有難し、という事に親しむ人達がふえて来た、という事が有難いんです。それこそ、ね。おかげがありがたいのじゃない、ね。信心による有難い、という心はどこからにでも、頂けるんだ。どこからでも頂ける手立てが合楽理念なのだ。スパナをちょっと、こうネジをまくと、はあ、こんな事と思っておったことにも、お礼が申し上げねばならない事がわかり、有難いなあ。言わんでおってよかったな、という。そこに実証がうまれてくるんですね。そういう有難し、を育てていって始めて、ね。疑いを去れよ、と。もう疑う余地はない、ね。もう信ずる以外はない、ね。それこそ信ずる事の尊さ、という事です。古屋先生じゃないけれども、わかりました、というような信心を積み重ね、積み上げていく事だと思うですね。 「どうぞ」